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取手市〜茨城県南の玄関口のまち〜

  • 執筆者の写真: うらのりょうた
    うらのりょうた
  • 2020年8月7日
  • 読了時間: 3分

更新日:4月7日

最後の砦!取手市(とりでし)は茨城県南の玄関口のまちです。江戸時代から利根川を利用した水運、陸運の要所となった取手市は、今でもJR常磐線、国道6号など交通の要として重要な役割を果たしています。

国道6号の大利根橋
国道6号の大利根橋

常磐線
常磐線

取手駅
取手駅

雄大な利根川の河川敷は緑地運動公園やゴルフ場など市民の憩いの場として利用されています。

私にとっては、会社の研修でお世話になったまちでもあります。自転車で市内を巡りました。取手競輪場に、キリンのビール工場(晩御飯でキリンビールの取手限定版が振る舞われました)、そして、PL学園を甲子園の決勝で破り、市民の誇りとなっている取手二高。取手市民の誰に聞いても「取手と言えば取手二高。取手二高をしらないのか。そもそも、今でこそ全国区の知名度になった常総学園を強くした名監督は元々取手二高の監督だ」という話を何度も聞かされました。

取手競輪場
取手競輪場

キリンビール工場
キリンビール工場

取手二高
取手二高

坂が多かったのも印象的です。


取手市でお世話になった新聞舗の創業は1959年。取手市は常磐の玄関口であるにも関わらず、当時は専売所がなく、新規顧客の開拓に乗り出たそうです。しかし、2代目は「ひどい状況だった」と当時を振り返ります。店舗にはダニとノミが出て、周辺には住宅もまだまだ少なかったそう。厳しい船出となりましたが、奥さんと二人三脚で新聞舗の礎を築いていきました。親戚の手助けが加わり、現在は独立している方々も新聞舗の黎明期を支えました。


新聞舗の飛躍的な成長の追い風となったのは、60年代後半に起こった取手市のベッドタウン化。東京まで40分というアクセスの良さも相まって、井野団地をはじめ、大規模な住宅地が造成されました。新聞舗も順調に契約者数を増やし、「こんなに面白い仕事はない」と感じたそうです。


苦難は新聞店同士のきずなで乗り越えてきました。11年に起きた東日本大震災では新聞舗も大きな被害を受けます。翌朝は8時から新聞配達をはじめ、しばらくは新聞配達用のバイクのガソリンを確保することにも困りました。それでも、周辺の新聞店と協力し合って今に至ります。茨城県内を襲った水害では逆に協力の手をさしのべました。


00年からは2代目が店を引き継ぎ、現在は3代目が就任に向けて修行中。守るべき存在もでき、決意を新たにしていました。


研修ではドッキング作業をするため夜中の1時ごろにトラックに乗り取手市から守谷市へ。真っ暗闇の公園の横で待っているともう一台トラックがやってきて半分ほど新聞を移して走り去っていきました。なるほど、こうやってピストン輸送をして各家庭に新聞が届くのか。守谷市を経由した後は常総市へ。閑静とした団地へ新聞を届けました。

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日本1718景とは

「私のまちは何もないよ」

自己紹介でよく聞くセリフです。
大学時代、この言葉に違和感を覚えたことを

きっかけに12年かけて日本を踏破。

すべてのまちに魅力があるはずだし、

すべての人がまちに誇りを持ってほしい。
知らないまちを知ったり訪れるキッカケをつくり、
日本の津々浦々が盛りあがるようにー

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